アイスホッケー日本代表を目指した日々

吉江一彦は、1965年、東京に生まれました。アイスホッケー選手だった叔父の影響で、3歳より少年チームに入団。氷上の格闘技と呼ばれるこの競技に魅せられ、いつしかプロを目指すようになりました。そう、現在まで続く吉江とトレーニングとの関わりは、まず、アスリートとして始まったのでした。

中学、高校と順調にキャリアを積み、高校時代には国体東京代表に選抜。卒業後はアイスホッケーの本場カナダへと留学したその選手人生は、順風満帆そのものでした。しかし、留学先のカナダで科学的なトレーニングのあり方を目の当たりにしたことが、吉江の人生を決定的に変えることになります。帰国後、吉江は、選手として活躍するというそれまでの目標を変え、トレーナーという道を目指し始めたのでした。

トレーナーとして歩き始める

当時、1980年代後半、空前の好景気に沸く日本ではフィットネスブームが起こり、新しい職業としてトレーナーが注目を集めていました。
ただやみくもに練習に打ち込むのではなく、科学や医学の知識に裏打ちされた合理的なトレーニングを続けることで、アスリートはより高いパフォーマンスを上げることが出来る。アスリートではなくとも一般の人も、健康な体があれば毎日を気力に満ちて過ごすことが出来る。やりがいのある仕事じゃないか!日本にも、合理的なトレーニングを広めて行きたい!こうして吉江は思い切って人気ジム“エグザス”の門を叩き、トレーナーとしての第一歩を踏み出し始めたのでした。

最高級フィットネスジムのマネージャーに

それから、4年。吉江はトレーナーとして頭角を現し、都心のジムのマネージャーへと抜擢を受けました。企業オーナーや芸能人が会員に名をつらねる、エグゼクティブ向けの高級ジムです。
「とは言っても、でんと椅子に座っていれば良いという訳はありませんでした」
と、吉江は当時を振り返ります。
「クレーム対応、スタッフ教育から、ボイラー室の温度管理まで。何から何までマネージャー自らがやらなければいけなかった。でもここで、ジム経営のノウハウを学んだんです」

既存のトレーニングへの疑問

こうしてトレーナーとして順調にキャリアを積んでいた吉江でしたが、次第に、日本のジムのあり方そのものに疑問を感じるようになりました。

と言うのも、マネージャーとして日々注意深くお客様の動向を見守っていると、せっかく高額のジムに入会頂いたのに、ほとんど活用されていない方が多いことに気づかされたのです。

そういったお客様はジムに来ても、プールを少し歩いたらシャワーを浴びて帰るだけ。いくらマシントレーニングやエアロビクスをお薦めしても、気乗りがしないご様子。やがて吉江は根本的な問題に行き当たります。

「こういったお客様は、体を動かすことそのものに慣れていらっしゃらないのではないか。そもそも運動が苦手な方が多く、医師に体を動かせと言われたからジムに入ったものの、エアロビクスやヨガは複雑過ぎて手に負えない。マシンも上手く使いこなせない。まして人前でなんて、かっこ悪くてトライ出来る訳がないんです」

でも、こういった人たちの体は、切実に運動を必要としている。一人一人のお客様に向けた、オーダーメードのトレーニングを作るべきではないのか?“パーソナルトレーニング”のコンセプトがこの時、吉江の中に芽生えたのでした。

ロスアンゼルスで見た理想のトレーニング

しばらく後、吉江は、アメリカ西海岸へと旅立ちました。頭の中に膨らみ始めたパーソナルトレーニングのイメージを形にするために、スポーツジム発祥の地を訪ねてみたいと思ったのです。

向かったのは、“ゴールドジム”。フィットネスクラブはここから始まったと言われる、ロスアンゼルスの有名ジムです。そこで見た光景は、その後の吉江の道筋を決定づけるものとなりました。

まず、強く心を奪われたのは、ジムの前に広がる美しい海でした。西海岸特有の青く澄んだ海と、まばゆいばかりの太陽の光。驚いたことにゴールドジムでは、マシンをビーチに持ち出して、太陽の下でエクササイズが行われていました。
「何て楽しそうなんだろう!マシントレーニングだって、太陽の下なら何倍も気分がいいに違いない」
呆然と見つめる吉江の前に、ビーチを疾走して、赤いコルベットが現れました。運転していたのは、ベッカムに似たグッドルッキングの男性。助手席には中年のマダムを乗せていました。車から降りた二人はビーチに立つと、驚いたことにボクササイズを始めたのです。

「男性はパーソナルトレーナー、女性はその顧客だったんです。正直言って、女性のパンチはめちゃくちゃなものでしたが、ラジカセから流すロックのリズムに乗って、とにかく楽しそうでした。これだ、と思いましたね」
形にとらわれる必要はない。一人一人のお客様が求めるもの、その体力、運動能力に合わせて、パーソナルなトレーニングを組み立てる。しかも、一番楽しい形で!

まだ日本に“パーソナルトレーナー”という概念がなかった時代、こうして吉江はパイオニアの道を歩み始めました。

 

アイスホッケー日本代表を目指した日々

吉江一彦は、1965年、東京に生まれました。アイスホッケー選手だった叔父の影響で、3歳より少年チームに入団。氷上の格闘技と呼ばれるこの競技に魅せられ、いつしかプロを目指すようになりました。そう、現在まで続く吉江とトレーニングとの関わりは、まず、アスリートとして始まったのでした。

中学、高校と順調にキャリアを積み、高校時代には国体東京代表に選抜。卒業後はアイスホッケーの本場カナダへと留学したその選手人生は、順風満帆そのものでした。しかし、留学先のカナダで科学的なトレーニングのあり方を目の当たりにしたことが、吉江の人生を決定的に変えることになります。帰国後、吉江は、選手として活躍するというそれまでの目標を変え、トレーナーという道を目指し始めたのでした。

トレーナーとして歩き始める

当時、1980年代後半、空前の好景気に沸く日本ではフィットネスブームが起こり、新しい職業としてトレーナーが注目を集めていました。
ただやみくもに練習に打ち込むのではなく、科学や医学の知識に裏打ちされた合理的なトレーニングを続けることで、アスリートはより高いパフォーマンスを上げることが出来る。アスリートではなくとも一般の人も、健康な体があれば毎日を気力に満ちて過ごすことが出来る。やりがいのある仕事じゃないか!日本にも、合理的なトレーニングを広めて行きたい!こうして吉江は思い切って人気ジム“エグザス”の門を叩き、トレーナーとしての第一歩を踏み出し始めたのでした。

最高級フィットネスジムのマネージャーに

それから、4年。吉江はトレーナーとして頭角を現し、都心のジムのマネージャーへと抜擢を受けました。企業オーナーや芸能人が会員に名をつらねる、エグゼクティブ向けの高級ジムです。
「とは言っても、でんと椅子に座っていれば良いという訳はありませんでした」
と、吉江は当時を振り返ります。
「クレーム対応、スタッフ教育から、ボイラー室の温度管理まで。何から何までマネージャー自らがやらなければいけなかった。でもここで、ジム経営のノウハウを学んだんです」

既存のトレーニングへの疑問

こうしてトレーナーとして順調にキャリアを積んでいた吉江でしたが、次第に、日本のジムのあり方そのものに疑問を感じるようになりました。

と言うのも、マネージャーとして日々注意深くお客様の動向を見守っていると、せっかく高額のジムに入会頂いたのに、ほとんど活用されていない方が多いことに気づかされたのです。

そういったお客様はジムに来ても、プールを少し歩いたらシャワーを浴びて帰るだけ。いくらマシントレーニングやエアロビクスをお薦めしても、気乗りがしないご様子。やがて吉江は根本的な問題に行き当たります。

「こういったお客様は、体を動かすことそのものに慣れていらっしゃらないのではないか。そもそも運動が苦手な方が多く、医師に体を動かせと言われたからジムに入ったものの、エアロビクスやヨガは複雑過ぎて手に負えない。マシンも上手く使いこなせない。まして人前でなんて、かっこ悪くてトライ出来る訳がないんです」

でも、こういった人たちの体は、切実に運動を必要としている。一人一人のお客様に向けた、オーダーメードのトレーニングを作るべきではないのか?“パーソナルトレーニング”のコンセプトがこの時、吉江の中に芽生えたのでした。

アイスホッケー日本代表を目指した日々

吉江一彦は、1965年、東京に生まれました。アイスホッケー選手だった叔父の影響で、3歳より少年チームに入団。氷上の格闘技と呼ばれるこの競技に魅せられ、いつしかプロを目指すようになりました。そう、現在まで続く吉江とトレーニングとの関わりは、まず、アスリートとして始まったのでした。

中学、高校と順調にキャリアを積み、高校時代には国体東京代表に選抜。卒業後はアイスホッケーの本場カナダへと留学したその選手人生は、順風満帆そのものでした。しかし、留学先のカナダで科学的なトレーニングのあり方を目の当たりにしたことが、吉江の人生を決定的に変えることになります。帰国後、吉江は、選手として活躍するというそれまでの目標を変え、トレーナーという道を目指し始めたのでした。

トレーナーとして歩き始める

当時、1980年代後半、空前の好景気に沸く日本ではフィットネスブームが起こり、新しい職業としてトレーナーが注目を集めていました。
ただやみくもに練習に打ち込むのではなく、科学や医学の知識に裏打ちされた合理的なトレーニングを続けることで、アスリートはより高いパフォーマンスを上げることが出来る。アスリートではなくとも一般の人も、健康な体があれば毎日を気力に満ちて過ごすことが出来る。やりがいのある仕事じゃないか!日本にも、合理的なトレーニングを広めて行きたい!こうして吉江は思い切って人気ジム“エグザス”の門を叩き、トレーナーとしての第一歩を踏み出し始めたのでした。

最高級フィットネスジムのマネージャーに

それから、4年。吉江はトレーナーとして頭角を現し、都心のジムのマネージャーへと抜擢を受けました。企業オーナーや芸能人が会員に名をつらねる、エグゼクティブ向けの高級ジムです。
「とは言っても、でんと椅子に座っていれば良いという訳はありませんでした」
と、吉江は当時を振り返ります。
「クレーム対応、スタッフ教育から、ボイラー室の温度管理まで。何から何までマネージャー自らがやらなければいけなかった。でもここで、ジム経営のノウハウを学んだんです」

既存のトレーニングへの疑問

こうしてトレーナーとして順調にキャリアを積んでいた吉江でしたが、次第に、日本のジムのあり方そのものに疑問を感じるようになりました。

と言うのも、マネージャーとして日々注意深くお客様の動向を見守っていると、せっかく高額のジムに入会頂いたのに、ほとんど活用されていない方が多いことに気づかされたのです。

そういったお客様はジムに来ても、プールを少し歩いたらシャワーを浴びて帰るだけ。いくらマシントレーニングやエアロビクスをお薦めしても、気乗りがしないご様子。やがて吉江は根本的な問題に行き当たります。

「こういったお客様は、体を動かすことそのものに慣れていらっしゃらないのではないか。そもそも運動が苦手な方が多く、医師に体を動かせと言われたからジムに入ったものの、エアロビクスやヨガは複雑過ぎて手に負えない。マシンも上手く使いこなせない。まして人前でなんて、かっこ悪くてトライ出来る訳がないんです」

でも、こういった人たちの体は、切実に運動を必要としている。一人一人のお客様に向けた、オーダーメードのトレーニングを作るべきではないのか?“パーソナルトレーニング”のコンセプトがこの時、吉江の中に芽生えたのでした。

ロスアンゼルスで見た理想のトレーニング

しばらく後、吉江は、アメリカ西海岸へと旅立ちました。頭の中に膨らみ始めたパーソナルトレーニングのイメージを形にするために、スポーツジム発祥の地を訪ねてみたいと思ったのです。

向かったのは、“ゴールドジム”。フィットネスクラブはここから始まったと言われる、ロスアンゼルスの有名ジムです。そこで見た光景は、その後の吉江の道筋を決定づけるものとなりました。

まず、強く心を奪われたのは、ジムの前に広がる美しい海でした。西海岸特有の青く澄んだ海と、まばゆいばかりの太陽の光。驚いたことにゴールドジムでは、マシンをビーチに持ち出して、太陽の下でエクササイズが行われていました。
「何て楽しそうなんだろう!マシントレーニングだって、太陽の下なら何倍も気分がいいに違いない」
呆然と見つめる吉江の前に、ビーチを疾走して、赤いコルベットが現れました。運転していたのは、ベッカムに似たグッドルッキングの男性。助手席には中年のマダムを乗せていました。車から降りた二人はビーチに立つと、驚いたことにボクササイズを始めたのです。

「男性はパーソナルトレーナー、女性はその顧客だったんです。正直言って、女性のパンチはめちゃくちゃなものでしたが、ラジカセから流すロックのリズムに乗って、とにかく楽しそうでした。これだ、と思いましたね」
形にとらわれる必要はない。一人一人のお客様が求めるもの、その体力、運動能力に合わせて、パーソナルなトレーニングを組み立てる。しかも、一番楽しい形で!

まだ日本に“パーソナルトレーナー”という概念がなかった時代、こうして吉江はパイオニアの道を歩み始めました。